ナースママの徒然草

看護師歴8年、2020年11月出産予定のプレママです。自分の経験を発信していきます。

東日本大震災

東日本大震災からもうすぐ10年。あの時の思い出を備忘録として書いてみる。

 

当時18歳私は、卒業式も終わり高校生活から解放され思う存分遊びまくっていた時期だった。

 

カラオケにいたとき、突然大きな揺れがありテレビが床に倒れ、柱がミシミシと鳴っている音が聞こえてきて明らかにおかしいと感じた。

カラオケの店員さんが、1つ1つの部屋に回ってきて急いで外に出るように言われた。

走って外に出たら、その直後カラオケ店の一部が倒壊し始めた。

びっくりして固まっていると、地震が落ち着いたタイミングで外に避難していたお客さんたちが店内に戻り並んでお会計をしていた。店員さんも冷静にそれを対応していた。

びっくりして逃げる人がいたり、お金を払わずどこかに行く人がいてもおかしくなさそうなのに、日本ってすごい国だなって改めて感じた。

その日は晴れて暖かい日だったので、制服とマフラーとローファーでお出かけしていたが突然吹雪が吹き始めた。

寒いのに、倒壊の可能性があるからと駅にもお店にも入れなくて駅前のベンチでどうしていいのかわからず友達とかがみこんでいた。

電車も動いていない、バスも動いていない、学生だからお金も全然持ってない。

自宅まで片道約30キロ。携帯も全然つながらない。

歩いて帰る以外の選択肢が思いつかなくて、歩き始めたらそのタイミングで偶然携帯がつながったのか家族から車で迎えに行くと連絡があった。

指定の場所まで通常なら1時間程度でつくが、道路も渋滞していたのでお迎えにきたのは3時間後だった。

 

自宅に帰ってからは、停電はなかったけど毎日毎日余震があった。

スーパーに行くと、商品はほとんどなかった。ほぐし鮭を1瓶買えたから、毎日毎日それをご飯にかけてみんなで少しずつ食べた。甘いものは、唯一残ってた甘納豆をどうしても甘いものが食べたいときに一粒ずつ大事に食べた。

田舎なので、車がないと生きていけなかったためガソリンが入荷すると情報が入ると早朝からガソリンスタンドに並んだ。

 

母は、看護師として震災の時もその後も毎日職場に出勤していた。

心配だったけど、ほんとに世の中の人が困っているタイミングで人の助けになる仕事をしている母が誇らしかった。

4月から看護学生になるが、何もできない自分にとても歯がゆい思いをしたのを今でも覚えている。人のために仕事ができる看護師に自分もなろうとここで強く思った。

 

そんなこんなで上京し、看護学生としての生活がスタートしました。